勝連・うるま② 中城湾のいまとむかし/米軍統治下の勝連半島/2024年3月10日

 

 
連載②
 


中城湾のいまとむかし


 24,000ha…国内2位という広大な港湾区域を有する、勝連半島(与勝半島)~津堅島久高島知念半島などに囲まれた中城湾港は、物流・産業、観光・交流、防災の拠点として大きな役割を担っているとされ、

□自立型経済の構築を支える物流・産業拠点
□地域資源を生かしたアジアの誇れる国際交流拠点(クルーズ船などの受入環境の充実)
□暮らし・仕事・観光の安心・安全を支える中城湾(防災拠点)


という将来像を描く長期構想をもとに、様々な計画が策定されているようです。一方で「特定重要拠点空港・港湾(仮称)」の指定(候補)という、軍民共用化の構想があります。
 
 
国土交通省の港湾計画「中城湾港(改訂)」2021.3.3交通政策審議会 第84回港湾分科会資料より

 
 日本海軍は、日清戦争後、台湾の植民地経営において、中城港を重要視していたそうです。艦船が燃料等の補給のため臨時に寄港する港湾施設「海軍需品支庫」を、海軍は1896年に設置しています。

 有事の際の臨時要塞として「中城湾臨時要塞」が最初に構想されたのは1922年のことで、ワシントン条約の軍縮により、いったんは中止されました。その後、「南方作戦」遂行のために寄港する輸送船や艦艇を守るため、1940年に中城湾臨時要塞の建設が始まりました。

 日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃の半年前、1941年7月、中城湾臨時要塞に、広大な湾を守るための重砲兵連隊を中心とする臨時要塞部隊が編成されました。要塞司令部・連隊本部は与那原に、第1~第4中隊は津堅島、伊計島(後に知念半島に移動)、平敷屋(後に小禄に移動)、那覇(後の再編で廃止)に置かれました。1944年、「南西諸島防衛」のために第32軍が編成されると、中城湾要塞重砲兵連隊は第32軍に編入され、重砲兵第7連隊と改称されました。

 1945年4月10日、米軍が中城湾に上陸。激しい戦闘の末、6月、中城臨時要塞は壊滅したといいます。

 勝連半島の、ホワイト・ビーチが見下ろせる丘に「平敷屋砲台跡」があります。勝連分屯地の弾薬庫から東に300~400mくらいのところです。4期の砲台と弾薬庫などの遺構が分布しています。その構造から「88式7センチ高射砲」が据えられていたと推測されます。砲台の排水溝に刻まれた「十六年霜月」という文字が、1941年11月に建設されたことを示しています。
 勝連分屯地に「第324高射中隊」が配備されるのは、それからおよそ32年後の1973年5月1日のことでした。



米軍統治下の勝連半島

 1956年、地対地戦術核ミサイル「オネスト・ジョン」が嘉手納基地に配備されました。それに合わせて海兵隊の基地が拡充され、核弾頭の使用を想定したミサイル発射訓練がくり返されるようになったといいます。

 「メースB」は、射程2,400km、広島型原子爆弾の約70倍の破壊力を持つ核弾頭を搭載した、巡航ミサイルです。1960年代前半に、沖縄に32基配備されました。そして、沖縄は約1300発の核爆弾がひしめくアジア最大の核攻撃拠点となりました。1962年10月のキューバ危機の際は、メースBの基地は核戦争の臨戦態勢にあり、発射寸前の状況にまで達していたといいます。

 メースBのミサイル基地は、沖縄県内の4ヶ所、読谷村、恩納村、うるま市、金武町に造られました。基地建設に従事した沖縄の作業員には、それが核ミサイルの基地であることは知らされていなかったそうです。
 核攻撃基地や核兵器の大半を貯蔵する嘉手納弾薬庫を攻撃から守るために、そのまわりには「ナイキ・ハーキュリーズ」など地対空ミサイルの基地がいくつも造られました。

 核攻撃ミサイルとそれを守る地対空ミサイル、という配置は、現在進められている自衛隊南西シフトの、主力の地対艦ミサイルとそれを守る地対空ミサイル、という配置と重なります。

 うるま市の勝連半島には、平敷屋砲台跡のすぐ近くに「嘉手納第2サイト(メースサイト)」…メースBのミサイル基地がありました。1962年10月に開設、1976年12月31日に返還され、現在は住宅地になっています。そのほか、
 
資料:ミサイル配備から命を守るうるま市民の会

「西原陸軍補助施設Bサイト(ナイキサイト)」:ナイキ・ミサイル(地対空ミサイル)の発射基地。1959年2月開設、1969年10月機能停止、1973年6月返還。現在は畑に。
「西原陸軍補助施設Aサイト」:ナイキ・ミサイルの誘導基地。1959年2月開設、1969年10月機能停止、1973年6月返還。現在は与勝病院。

 そして、「西原第二陸軍補助施設」「勝連半島陸軍地区(ホークサイト)」はホーク・ミサイル(レイセオン社が開発した地対空ミサイル)の基地で、1960年3月の開設。1973年5月1日に陸上自衛隊に引き継がれ「勝連分屯地」となり、地対空ミサイル部隊が配備されています。
 
 
資料:ミサイル配備から命を守るうるま市民の会

 1960年の日米安保条約改定時、日米両政府は、アメリカが日本に核兵器を持ち込もうとする場合は事前協議を要することを確認しました。しかし、当時アメリカの施政下にあった沖縄は、その対象外でした。

資料:ミサイル配備から命を守るうるま市民の会

 1967年12月、佐藤栄作首相は「非核三原則」を提唱。そして1969年11月、「沖縄返還」をめぐるワシントンでの日米主脳会議(ニクソン・佐藤)で、メースBの撤去が決まりました。「核抜き返還」であることが、大いに宣伝されました。しかしその裏で、重大な緊急事態の際は事前協議で返還後の沖縄への核持ち込みを認める、とした「核密約」の合意があったことが分かっています。

 この密約の合意議事録にはまた、「米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める」という記述があります。ナイキ・ハーキュリーズなどのミサイル基地・施設の多くは、自衛隊の「高射教育訓練場」として移管されました(勝連分屯地など)



 今日、2024年3月10日、勝連分屯地への地対艦ミサイル部隊配備に向け、トラックやトレーラーなどの軍用車両約20台が中城湾港に陸揚げされました。約200人の市民が中城湾港北側ゲートで抗議の声を上げ、座り込みました。車両は南側のゲートに回り、そこから勝連分屯地へ向かったとのことです。ミサイルの発射機などは11日以降に、那覇空港に空輸し、公道を使って勝連分屯地へ運ぶ計画のようです。

▶勝連分屯地に輸送車両の配備始まる フェリーから続々と 地対艦ミサイル部隊の配備を巡り(沖縄タイムス3.10)
▶「1発撃てば何百発も返ってくる」 陸自勝連分屯地へのミサイル配備に抗議 中城湾前で市民が拳あげる(沖縄タイムス3.10)
▶「戦争につながるミサイル要らない」車両など陸揚げに市民ら怒りの声(琉球新報3.10)https://ryukyushimpo.jp/news/politics/entry-2886477.html
▶自衛隊員「通路を開放して」 座り込み抗議の市民「沖縄を軍隊から開放しろ」 ミサイル装備を載せた車両、別ゲートから勝連分屯地へ(沖縄タイムス3.10)

 
 およそ150年の間、日本とアメリカの軍事戦略に利用され続けてきた、沖縄・中城湾と勝連半島。「南西諸島防衛」という名目で要塞化・米軍を迎え撃つミサイル基地とされ、沖縄戦で「捨て石」とされた時代があり、核ミサイルの攻撃拠点とされ、アメリカがミサイルを発射し報復で核ミサイルの標的になる、ということが起こりかねない時代がありました。

 核戦争から限定戦争へ。…いま、核の「閾値内」の海洋限定戦争を指向する米日の新たな対中国戦略のもと、日本政府が琉球弧を「戦域」として使用する/提供する戦争態勢の攻撃拠点の中枢とするため、ふたたび「南西諸島防衛」という名目で、勝連半島に地対艦ミサイル部隊が配備されようとしているところです。




 
▶勝連・うるま③ 保安林問題1・踏みにじられてきたもの に続く…

◆3月18日(月)18:00~19:00、官邸前行動を予定しています◆
【勝連をもう2度とミサイル半島にさせない!】
ー与那国島、石垣島、波照間島、宮古島、下地島、北大東島、久米島、入砂島、伊江島、沖縄島、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島、臥蛇島、種子島、馬毛島、九州島…島じまを奪って戦争をつくるな!

呼びかけ:島じまスタンディング、STOP大軍拡アクション
ぜひ、ご参加ください!



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